このブログは、「私自身とベトナムの関係」について、直感を歴史的に証明することを目的としたブログです。
詳しくは、こちらをご覧ください。
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今回は、バテレン追放令と日本人奴隷の関係から見える関係について考察していきたいと思います。
バテレン追放令とは
歴史の教科書に必ず出てくる「フランシスコ・ザビエル」
キリスト教が日本に伝わった1549年に薩摩(鹿児島)に上陸したことをきっかけに日本でキリスト教の布教活動を実施します。
そこから少し日が経った1563年には「ルイス・フロイス」という宣教師が来日することになる。
彼が書いた「日本史」と呼ばれる本は、当時の日本の状況を知る本として、今でも大変貴重な歴史的資料です。
これについては、この本から読み取れる日本と東南アジアとの関係について考察していこうと考えています。
ルイス・フロイス来日後、織田信長から布教の許可を得ていたこともあり、主に京都や西九州を中心に最大で15万人ほどの信者がいたとのこと。
それから約5年後、信長から豊臣秀吉に変わり、政策を踏襲しますが、その期間は長くは続きません。
この時に、キリスト教徒を追放する際に発令したものが
「伴天連(バテレン)追放令」
です。
なぜ弾圧したのか
当初キリスト教が弾圧されていなかった理由は、「貿易」であることは間違いないでしょう。
鉄砲や火薬、生糸などが輸入される代わりに、刀や銀、金などが輸出されていきました。
九州平定について
弾圧されるきっかけとなった出来事として
「九州平定」
があったとされています。
(この出来事についての呼称は複数存在するようですが、今回は九州平定と呼びます)
九州平定については、このブログでは紹介しませんのでリンクからご参照ください。
秀吉が見た景色
九州平定につき、秀吉は九州に向かいます。
その際、薩摩に遠征したのち、一行は博多に立ち寄り視察することとなったのでしょう。
そこで、ポルトガル人が日本人を買っていく様を見た秀吉は、即座にイエズス会の日本支部準管区長「ガスパール・コエリョ」に対して詰問を行なっている。
それを現代風に変換してみよう。
なぜ日本人を買うんだ?
そりゃ、「日本人が日本人を売るから」だろ?
もっと言うと、止めようとしたらしいんだけど、無理だったみたい
でも秀吉さんがそこまで言うなら、やめさせるし、違反者は罰則や処刑も考える
秀吉が見た現実は、自分が思っていたより悲惨なものだったのか。
どちらにしても、その現状を見てすぐに追放令を出すほどの状況だったのは間違いないのかもしれません。
特に長崎では、浦上の地をイエズス会に寄進していたこともあって、国土の一部を譲渡していた姿も見た模様。
これを知っていたのか、そうでなかったのかは分からないが、少なくとも「激怒」か「失望」だったのかもしれない。
これを見た秀吉は、ついにバテレン追放令を発令する。
奴隷として海を渡った人数
追放令が発令されるまでの間(もしくは発令されてからも)、どの程度の日本人奴隷が海を超えたのかは、はっきりしていないよう。
主に、ポルトガル人商人によって売られた日本人奴隷は、ポルトガル本土、マカオ、遠いところではアフリカなどに奴隷として売られて運ばれていたそうです。
5万人ともその10倍とも言われたそう。
当時、奴隷になる人をわざわざ数えたりすることもなかったであろうし、途中で亡くなったりしたところで海に捨てるかそのまま放置するなどの対応しか取らなかったであろうため、総数は今となっては不明としか言いようがない。
さらに、ポルトガル人商人の中には、日本人の女性(未成年も含む)を性的な目的で買い、己の欲求に従って乱暴に扱うことも多々あったよう。
このことから、その間に子どもが生まれていた可能性も推測されます。
後に、ローマに使節団として派遣された少年たちの証言によると、世界各地行く先々で日本人の奴隷を見たとの話であり、それが事実であれば(日本人であれば)5万人という数字は、少ないという証拠にもなるのではないかと思う。
奴隷を買ったのは、西欧人だけではない
当時、日本人奴隷を買っていたのは、西洋人だけではなかった。
先にも述べたルイス・フロイスの「日本史」によると、博多で日本人奴隷を購入していた人の中に、シャム人・カンボジア人も含まれていたということである。
もちろん、見た目のみで判断した可能性も否めないため、実際にどこの商人であったかは正確ではないにせよ、東南アジアから貿易のために日本に寄り、そこで奴隷を購入して本国で働かせていた可能性が高い。
ここでは、ベトナムに関する記述は見られないが、日本から渡った奴隷の中で、そのまま帰国することができた人は少なかった(もしくはいなかった)であろうことが推測される。
この視点からの考察
歴史の教科書などで、「豊臣秀吉」「バテレン」「バテレン追放令」「ポルトガル商人」などの言葉は出てくることが多く、知っている人も多いことと思う。
しかし、歴史を少しずつ深く観察していくと、そこにはより複雑な事情があることが分かった。
ここからは考察を少ししていこうと考える。
日本人奴隷を買っていたのは、西欧人だけじゃないという点
先に述べたところで言えば、ポルトガル商人だけが奴隷を買っていたわけではなく、シャム(現在のタイ)やカンボジア人も奴隷を購入していたという証言があること。
これにより、少なくともこの時代には、日本と東南アジアの接点が見られたということである。
東南アジア各地に日本人街があった歴史から見ても、どこかのきっかけで日本人と交流があり、それが深まることで交わる関係もあったのではないかと思われます。
ここにも、1つ歴史的に証明できそうな道がありますね。
ベトナム側からの資料の記録が乏しいこと
日本側からは少なくとも、その当時に東南アジア地域と交流(貿易)があったのではないかとされる資料が出てきている。
しかし、ベトナム側からそのような資料が見つかったという情報は、日本側に比べれば少ないと推測される。
これは、様々な要因がある。
例えば戦争によって、ベトナム国内では多くの物が破壊された。
これにより、記録という面でも破壊されたものは数しれないのではないだろうか。
また、「ベトナム語」に関しても、今では学習者や在住者は増加している傾向にあるものの、少なくとも10年以上前には今より更にベトナム語の立ち位置は低かったのではないだろうか。
ベトナムとカンボジアは一括りにされていたり、戦争のイメージからくる「怖い」という印象は、多くの人にとって勉強したり、研究したりする対象にはなっていなかったのではないかと推測される。
まとめ
今回は、ネットから拾った情報をもとにベトナムと日本の歴史的なつながりを、浅く推論してみました。
少しずつ、この推論を完成させて、いつかは証拠を持った研究資料として世に出せればと考えています。
それでは以上。