今回は、ルシオ・デ・ソウザ氏/岡美穂子氏による著書「大航海時代の日本人」についてレビューと考察をしていこうと思います。

なぜ私が、ベトナムと自分とのつながりを証明したいと考えているかについては、以下の記事をご覧ください。

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この本で分かったこと

 

この本で分かったことは以下の通りである。

・アジア人を、中国・日本・朝鮮のように区別する場合と、そうでない場合があったようである。

・アジア人は「インディオ(男性)インディア(女性)」として呼ばれる。

東アジア・アフリカ東海岸出身者を総じてそう括っていた。

・そもそも日本名(出生名)は分からず、欧米風の名前に改名されて登録されていた。

・日本人と判明できるものでは、「ハポン」という言葉が名前の中に入っている。

・中国(シノ・チーナ)と書かれている場合でも、実際は日本人だった可能性もある。

・マカオでは、中国人は明確に区別されていた。

・奴隷の中でも、種類が分かれていた。(奴隷・準奴隷

・奴隷には種類があったようである。誘拐などで強制的に連れてこられたもの、売られたもの、自分の意思で来たもの、戦争で生け捕り(捕虜)になったもの。

・そもそも奴隷の概念が欧米と日本では異なっていた可能性がある。(奉公人制度

・奴隷は、年季契約や永久的奴隷などの種類があった。

・奴隷の主人がなくなる際に、遺言として所有する奴隷を解放する旨を記すことがあった。

・また、奴隷も一定数お金を稼げば、お金を支払い自由奴隷になれた。

・貴族などにとって、奴隷の所有は富の象徴・慈悲を表すための道具であった場合もある。

・レオン・パジェス「日本切支丹宗門史」と「資料集」により、16世紀の長崎のイエズス会等によって行われた奴隷貿易についての報告書を紹介し、分析した。(フランス語翻訳)

・20世紀初頭に、岡本良知氏がパジェスの文書を利用して、日本人奴隷の存在を明らかにした。岡本氏は、パジェスの文書を利用しながらも、スペインやポルトガルの新出資料も用いている。

・また、日本で研究生活を送ったホセ・ルイス・アルバレス=タラドリスも、当時の奴隷貿易に関するイエズス会の書簡記録を紹介し、現在でも貴重な研究材料を提供している。

・高瀬弘一郎氏は、ポルトガルのインド領国と本国との通信記録である「モンスーン文書」を研究し、アジア人・日本人奴隷に関する資料を刊行している。

・様々な資料が存在しているが、実際のところ、日本人奴隷に関する研究は未だに成熟し発展しているということではない。

今回は、この著書の中でもアジア地域に渡った日本人奴隷に焦点を当てて、紹介していこうと思う。

アジアにおける日本人奴隷

アジアにおける日本人奴隷を語る上で、地理的に以下の場所が語られることが多い。

マニラ・フィリピン・ゴアだ。

いずれも当時、ポルトガルと関係が深かった地域である。

マカオ

マカオに滞在していた日本人を調べることは今となっては容易ではない。

なぜなら、16世紀の寧波の乱による日明貿易の断絶と、後期倭寇の活動により、日本人の入国が厳しく制限されていたためである。

当時、ポルトガル商人と女性日本人奴隷の間で様々な問題が見られていたようである。

商人たちは、マカオに戻る船の自身の部屋に日本人奴隷(内縁を含む)を隠して、そのまま出航するということが相次いだのだ。

これにより、日本からマニラに出航する場合、夜間には男女の部屋を分け、部屋を施錠し隔離しなければならないという取り決めが策定されたほどである。

マカオへ向かう船には、商人の他に日本人女性だけではなく、中国人の女性も同乗していたとのこと。

その中国人は、戦や倭寇によって中国沿岸部から日本まで連れて来られ、そこから船に乗りマカオやその先のマラッカやゴアまで行ったようである。

そういったポルトガル商人と日本人と中国人などがマカオに滞在することにより、男女の関係になったり子どもが生まれたりすることによって、当時のマカオは人種的な交配がかなり進んでいた可能性が指摘されている。

フィレンツェ人商人フランシスコ・カルレッティの旅行記「世界周遊記」の中で、1598年に日本からマカオに向かう船の船長が日本人とポルトガル人との混血であったこと、カンボジア方面の交易で活躍してたことなどを記している。

ここで、カンボジアのことが出てくるが、後に再びカンボジアとの関わりについての記載があるため、掘り下げて調べていきたい。

話を戻して、マカオでの貿易については、奴隷貿易がメインの商売だったというわけではなく、各地で多様な商品を取り扱っていた中に、「奴隷」という商品があった。つまり、商品の1つでしかなかったこということである。

無論、マカオに住んでいた日本人は女性だけではなく、男性もいた。

1582年に起きた海難事故により、マカオから日本に向かう商船のうち、一隻が台湾の海岸に遭難した事件があった。

そのことや、1500年以降ポルトガル人が台湾に立ち寄った記録などから当時のマカオー日本間の南蛮貿易における乗組員のおおよその人数や人種の構成が判明している。

ルイス・フロイス「日本史」の中では、乗組員は約200人前後、うち80人程度が非キリスト教徒の中国人であり、しかもその船の上級船員であったとのことである。

つまり、南蛮貿易の船団には相当数の中国人乗組員がいたことになる。

海難事故の報告によると、「モロ・ジュアン率いるジャンク船に乗っていた大勢の日本人と共に、砂地が続く海岸にやっとのことでたどり着いた」と記載がある。

そのため、この船には多くの日本人乗組員もいたことが分かる。

台湾における海難事故の報告から、初期のマカオのコミュニティの中には、ポルトガル人・中国人・日本人とが形成していたことが分かる。

ただし、日本人といってもそれぞれの身分は一様ではなく、奴隷・召使いなどの使役される立場から、自由民、商人、船団の船長まで多様であったことが分かる。

奴隷の種類

マカオ港における奴隷貿易は、その他の大きな港町やメキシコシティなどの大都市とは異なっていた。

他の大都市に来た奴隷たちは大抵、農場や鉱山労働者だったのに対し、マカオに来た奴隷の多くは港湾労働者もしくは下級船員であった。

これは、アジア経済・貿易の中心地であったマカオで輸送に関する労働は手短に稼げる仕事だったことが挙げられるだろう。

これ以外にも、家事労働者としての奴隷もおり、主人に仕え、水汲みや食料の配達、料理、掃除、伝令、子守、移動の付き添いなどもこなした。

兵隊/傭兵

ゴアやマラッカ同様、マカオにも日本人の傭兵が存在していたことが明らかになっている。

マニラにいた日本人奴隷の種類は2つ。自由民か奴隷である。

奴隷の場合、単独行動でも護衛などの従者の場合でも、刀剣などを所持し持ち歩くことは禁止された。

この命令に背く場合には、自由民・奴隷双方において刑罰の重さは違えど、労働などの罰則が課せられた。

なぜ、このような刑罰を作る必要があったのか?

これは、どの他の地域も同様のことながら、日本人奴隷の決起・反乱を恐れていたためである。

刀剣を持ち、戦に長けている奴隷たちが、一揆のように反乱されると、為す術もなかったためであろう。

そのため、日本人コミュニティを弱体化させる目的で、マニラからディラオ地区と呼ばれる地域に移され、刀剣も全て没収されるが、あまり効果を見出すことはなかったようである。

この理由は、マニラに住む一般市民も宗教関係者も傭兵を必要としていたからである。

自らを身売りした奴隷

16世紀末には、多くの商人の船がマカオー日本間を渡航し、その船の乗組員として日本人も乗船していた。

日本人がポルトガル船の乗組員になる理由は様々あり、その多くは犯罪者や貧困・借金逃れなどの理由によるものだったとされている。

当時は、今とは比べて物にならないくらい海外の情報を手に入れることが困難な時代であったことは容易に想像できるため、これらの乗組員になることを希望する者にとっては、マカオは理想の場所に見えたのであろう。

ただ、闇雲に乗組員になりたいと申し出たところで、すんなりとなれるものでもなかったようである。

なぜなら、当時乗組員になることを希望してマカオに向かう人の中では、マカオに着くや否や失踪してしまう人もいたようで、乗客として船に日本人を乗せたがらない場合もあった。

そのため、日本人の中には、乗組員としてではなく奴隷として自分の身分を保証する場合もあった。

多くは、「奴隷」に対する知識不足や、現地でどのような労働をさせられるかを知らないといった無知から来るものであった。

自らを奴隷として身売りした場合、その身売り先の主人が没すると、遺言により自由民になることもできた。

だが、自由民になった日本人の中には犯罪を犯すパターンの人もおり、商人や中国人を襲撃することもあったそうである。

さらに、フィリピンのスペイン人と外交や商業の面でトラブルが起こった場合、ポルトガル人は報復として犯罪者や厄介者などを船に乗せ、マニラへと輸送した。

そして、マニラ市内に混乱を引き起こすのである。これはいわゆるトラブルに対する「報復」行動である。

女性の場合には、生きるために売春婦になることを選ぶ者もいた。

病気になったり、高齢になって使い物にならなくなった場合には、道端に捨てられることもあった。

病気になった奴隷を養うのは経済的に費用がかかるし、それによって負担が増すことや自らを養うことができない奴隷たちは不要なのである。

それにより奴隷の主人は、奴隷に対して自死を命じる。

運が良ければ、ミゼリコルディアと呼ばれる慈善院や救貧院に修道士たちが引き取ることもあったが、必ずそのような施設に収容されることはなく、路上でそのまま孤独死するケースも多かったようである。

まとめ

今回は、長くなるので前半の部分だけ紹介しました。

次回は、後半部分について紹介して行きます。

それでは以上。