今回は、大航海時代の日本人奴隷という本のレビューその2になります。
その1については、こちらを参考にしてください。
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また、なぜ私がベトナムと日本の関係について考察するようになったのかについてはこちらを参照ください。
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日本人の増加とトラブル
1608年頃から、マカオに到着する傭兵や奴隷の数は増加していた。
人間が増加すると、そこにはトラブルも付き物で、そのうち日本人とポルトガル人の間でトラブルが発生する。
武装した日本人の集団30〜40人ほどが、マカオ市民のジャンク船を一隻盗もうと計画したのである。
この窃盗事件により、明朝官憲はマカオのポルトガル当局に対し、窃盗事件を働いた(未遂)容疑者について、引き渡すように求めるが、ポルトガル当局は、日本人に対して、明朝官憲には見つからぬように進言する。
結果、そういったやり取りをしている最中に別の日本人集団とポルトガル人の間で争いが発生したのである。
ポルトガル当局としては、事を荒立てる事なく穏便に済ませるつもりであったが、実際のところ一部の暴徒化したメンバーが発生。それにより自体は最悪の方向へと向かうのである。
特別治安院判事が重症、マカオ有力市民の息子が戦闘に巻き込まれ死亡するなどの大規模な事件となった。
戦闘の最中に、戦いを放棄したものもいるが、40名ほどは民家に立てこもり籠城する。
その後、武器を捨てて軽い刑を受けたのちに釈放されるものもいたが、籠城したものは結果的にほとんど殺害されている。
当局の警戒
上記のような事件は、記録されている限りのものであるため、他にも中小で様々な事件があったことは予測できる。
こういった行動の結果、明朝当局は、現地に在留している日本人やポルトガル人に対して警戒心を抱くようになる。
これまで、ポルトガルから遠く離れた交易地としての役割から逸している、黙認してきた日本人の存在などを無視できなくなってきたのだ。
警戒を察したポルトガル当局は、事を大きくする事なく穏便に済ませる予定だったが、それもうまくはいかなかった。
1614年、広東省の両広総督は、マカオから日本人を追放する命令を下す。
その後、問題解決のため明朝官憲がマカオに到着すると、そこには日本人や黒人の奴隷たちで溢れかえっていたようである。
明朝官憲は、90人以上の奴隷を追放する。
さらにポルトガル人に対して、今後新たに奴隷をマカオに連れてくることがあれば、法律に則り斬首刑に処すると警告した。
これに対して、マカオ租借地当初からのポルトガル人は、法律はすでに遵守しており、広東沿岸の海賊たちとの戦いを通じて秩序安定に貢献したと主張する。
さらに、ポルトガル人は、日本人奴隷を連れてきているのは、我々ではなく中国人やアフリカ人の傭兵たちであるとも主張している。
その後もマカオには日本人コミュニティが存在したが、1614年に90人の日本人が追放されてからは事態は一旦収束した。
キリシタン到来
伴天連追放令
1614年1月21日、江戸幕府は日本から伴天連・キリスト教の宣教師を追放する決定を下す。
それにより行き場を失った宣教師と、それに随行するキリシタンたちを乗せた3隻の船は、1隻はマニラへ、残りはマカオへ到着する。
1隻につき、100名程度が乗船していたと推測されるため、総数は約300人前後だと思われる。
1614年12月の記録では、マニラに、33人の教会関係者と100人の日本人が到着したと書かれているため、マカオに到着した人数は約200人前後だったと推測される。
その当時、すでに日本人奴隷の貿易は禁止されていたが、イエズス会の宣教師に随行する形で期限を問わない奉公人(モッソ・デ・セルヴィッソ)はマカオへ渡っていた。
多くの日本人がマカオに到着したのはいいものの、現地には受け入れる体制ができておらず、しかも彼らが宿泊する場所としては、聖パウロ学院であったが、急激な人数の増加により、とても窮屈な環境になっていた。
当時の学院には10名の日本人が滞在しており、ヨーロッパから来る宣教師に対して日本語教育を実施していた。
入門のレベルからネイティブレベルまでに分けられたクラスがあり、将来的に日本に密入国し、潜伏布教活動を行うための布石であった。
当時の人口調査
1625年、マカオの男性住民を対象にした人口調査が行われた。
マカオ出生の者、他で出生しそこからマカオに定住した市民が対象である。
マカオ生まれの市民の大半は、父はポルトガル人、母は日本人や中国人、朝鮮人、マレー人などの混血児が多かった。
この調査では、他のアジア人種や民族、更には女性や子どもに対する調査は行っておらず、実数は不明である。
1625年の資料からは、マカオにあったヨーロッパ人居留地は、純血(ポルトガルとポルトガル)ではなく、混血が徐々にその割合を増やしていることが資料からも判明できる。
ポルトガル人は、その歴史の中で多くを語られて来ることはなかったが、造船や操船、火器製造の技術を広めたことやアジア社会と密接な関係を作り、地域社会との商業コミュニケーションを発展させていった。
当時の日本人コミュニティ
明朝当局により、日本人の在留が違法とされていた当時、マカオにあった日本人コミュニティに関する情報は多くはない。
ただ、マカオには日本人が多数在留し、社会において重要な位置にあったこともまた間違いないことである。
これらの日本人の一部は季節労働者で、マカオと長崎の間を常に移動していたのである。
まとめ
前回・今回とマカオに在留していた日本人についての情報をまとめてみました。
次回はフィリピン編です。
以上。